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梵鐘 殿鐘 明和5年10月 森町かなや
(十三世泰吟和尚代) 山田七郎左衛門(印)代大田忠右衛門(印)
梵鐘は明治14年3月30日火災の時火が入りかなやに渡す
殿鐘は昭和19年7月戦争の為供出 |
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伽藍本堂再建 十四世春定和尚代 蓮華寺村 大工 常八 (印)
享和2年11月 164年前 八太郎(印) |
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山門(薬医門)再建
天保10年3月7日願書 天保13年建立(1254前)
前薬医門は文化13年4月4日の大風雨にて大破により23年後なり |
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御朱印状返上慶応4年 大洞院を通して12通(写しあり)
御朱印地上地高十六石と境内地2町5反 金領の上分水領より南西
以北は未有山林 として置く 明治4年なり |
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末寺宗松院 上川原 宝城院 廃寺(無住寺院に裁き)
明治5年なり |
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当山焼失 山門を残し他は全焼す 火元伏間よりの野火により
明治14年3月30日 (東の谷民家11戸共に) |
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仮本堂建築 森の梅林院の衆寮を求め奉り建つ 開創天文14年
再建249年 焼失
78年 仮堂78年 再々建85年後 現在
明治14年7月 20世玄智和尚代 |
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開山堂新築
昭和6年9月 25世鶴山代 |
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末寺中山寺合併
昭和23年 25世代 |
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本堂庫裡新築再々建築 |
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昭和42年3月 庫裡上棟
昭和43年6月 本堂上棟
昭和44年 完成
(鶴山61歳)本堂建築用材は欅材(千頭営林署)合天井板(小国神社)
外全部当寺の山林の木を用い時期の良い時に切りしものなり、屋根棟も本茸故300年以上持つと確信す |
| 10世慧亮寛明和尚書に |
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(当寺開創は古く天台にてもありなんかと書いた)
これは徳川幕府になり御朱印十六石戴いた故、徳川に敵対した武藤家より寄進の寺録であるならば没収される心配あり、開創後1560の人なればよく判明なるも如く認書せしならん、慶長8年の山主は3世秀虎和尚にて当山古くより寺領十六石ありとした。
これは秀虎和尚の政治的手柄なり 故に武藤家代々の墓石を隠しその替わりに現在開山の墓の後の丸二重石を開基の墓石として祭りたる。後250年にして再建本堂(14世代)に本堂の下に入れしものと思う。明治14年火災の時には土台石柱石等にしてあったため上部2寸位が焼け地に入り居りし部分とは色が違って居た、また仮本堂がその上に建てあること85年に今回新築の際、本堂下古土は全部庫裡方に移動し土堤の新土と入れ替えした時、宝篋印塔十余基発見し寺墓の次に整列せしものそれなり拙僧住職以来40年開基家の墓石を探し居り発見す、歴代和尚の墓は元亀以後の墓にて以前の寺墓なし 即ち歴代墓の所が武藤家鎌倉以降の墓地ならん、開山墓の後の丸い二重石を開基の墓として祭り来る。
また開基牌香勝寺殿興岩道清大居士、歿年月日なし徳川に遠慮してのことなり武藤家初祖五郎墓所は歴代墓所の上十間ばかりの町にて10世和尚知らずして発掘した、刀剣、土器、祭祠物あるも骨はなしとあり、鎌倉に刎首せられし故なり、始祖の墓にて其の下に12・3代ありしと思う。宝篋印塔、五輪塔にて20基は豪族の墓石にて農民にはなし |
| 末寺玉泉寺記録 山号一鴨山 |
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開山 当山3世嘯山秀虎大和尚也隠居処となし
御朱印高参石 内・・本尊十一面観音堂領 一石五斗
玉泉寺領として 一石五斗
即ち開創は慶長6年以前なり谷口鴨岡戸綿信徒なり、80年後の玉泉中興雪岩春好和尚代伽藍建てたものならん。
明治始めに本堂を縮小し現在まであり非常に破損した故、昭和43年7月森町道路事務所の建物譲り受け来り建築せし、本寺25世鶴山兼務住職也 |